鈴木知準診療所の訪問の思い出

tomonori-suzuki

成績不良かつ社交不安障害に悩みながらも、何とか大学を卒業し、地方のメーカーに就職が決まりました。自分の学部に関連したあるメーカーに、自分が所属していた大学の運動部のOBが働いていて、就職するように誘われましたが、既に、人間関係に背を向けるように行動を変えていた私は、OBなどの知り合いの会社に就職して付き合いができるのが嫌で、別のメーカーに就職したのでした。私が就職したメーカーの方が、同様の業種ながら格下で給与等が低くなるため、運動部のOBからは、「馬鹿だ」と言われましたが、OBの世話で就職した場合、運動部やそのOBとの関係をずっと維持するようなプレッシャーがかかりますが、そのような人間関係を維持する自信も意欲も全くなく、知っている人のいない組織で、新しい非社交的な生き方で、生きていきたいと思っていました。

多分、卒業後、仕事が開始される前に、実家に帰っていた時だと思うのですが、鈴木知準医師の診療所で入院治療を受けてみたいと思っていました。大学時代の中頃から、鈴木氏の著作にも親しんでいて、鈴木氏の著作の方法が一番、自分の症状等の改善の可能性がある、これしかないと思っていたのだと思います。そして、東京の中野駅の近くにあった、鈴木氏の診療所を訪ねて受診したいと思っていました。しかし、社交不安障害ならではの内気さ、状況回避などから、躊躇し、また、実際に数十日に渡る入院治療などを開始した場合、両親などには、私のメンタルの問題は全く話したことがなかったので、それも問題でした。

また、精神科を受診し、入院することに対する躊躇、恥じらいがありました。その当時は、今よりも精神科とか、メンタルの問題に対して、世間の偏見があり、理解も低かったとお思います。私の家庭では、母親がメンタルや行動に問題がありましたが、それらについて、オープンに議論されるようなことは、全くありませんでした。母親のメンタル障害などについて触れることはタブーで、母親は、そんな問題が全く存在しないように振舞っていて、そのようなことに話題が向けられるとヒステリーを起して、激しい拒否反応を示しました。父親は、そのような母親を全くリードすることができず、後年は母親の保護役をするようになり、ますます、母親の問題は、隠されるようになりました。

というわけで、鈴木氏の診療を受ける決意ができず、また、一、二回は、実際に中野駅まで移動したのに、診療所を訪問する勇気が出なくて帰ってきたような記憶があります。しかし、ある日、決意をして出かけて、診療所を訪問し、受診することができました。特に電話で予約することなどせずに、飛び込みで診療を申し込む感じだったと思います。待合室で、紙の申込用紙に自分の情報を入力するように受付にいた女性に言われ、記入しました。その時に、その女性が、記入の仕方などについて、かなりきつい言い方で、注文を付けるので、少し驚くと同時に、これが鈴木氏の著作にあった、「打ち込み」の一種だなと気づきました。

色々、患者に注文を付けて、患者がメンタルの症状より、作業などに注意を集中して、症状を忘れて活動の中に入っていくようにさせるのだと思います。その後、鈴木氏と20分くらい、面談したと思います。当時、すでにかなりの高齢で、人の好いお爺さんという印象を受けました。自分の症状などを話し、生活の発見会に参加したことがあることを伝えると、「発見会では、どんなことをしているのか」と聞かれたので、「色々話をして、その後、一緒に酒を飲んだりもします」などと答えると「酒を飲んでも神経症は直らない」などと言われたことを覚えています。私が参加したことがある、森田療法の自助グループの「生活の発見会」では、会合の後、有志で居酒屋などに行って、交流を図ることが良くあり、そのことを話しました。面談の最後に入院治療を許可され、入院治療の費用が書かれた書類をもらい、帰りました。入院費用は、20日くらいの入院で20万円くらいだったと思います。

結局、自分の内気、精神科に入院することへの世間体、金銭的理由などから、入院治療は申し込みませんでしたが、今から考えると、入院しておけば、指導してもらって、一生記憶に残る体験ができて、さらに、もっとましな人生を送ることができたのかもしれません。自分の勇気のなさを悔やみ、入院指導を経験しておけば良かったと思います。

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