大学時代の思い出7

memories

大学で年齢を重ねるにつれ、社交不安障害、対人恐怖、視線恐怖などの症状が、悪化してきました。そして、外出したり、対人関係に入っていくことが、さらに困難になってきました。そして、ますます自信をなくし、不安になっていきました。クラスでは、留年を繰り返していたため、同級生は年下で、しかもその友達の輪に入れず、プライドだけが高く、孤立していることが恥ずかしく惨めに感じつつ、それを受け入れられず、隠したくも感じていました。自分では、「なぜ、俺がこんなに、劣等感を感じなければならないのか?俺が人づきあいができなくなったのは、母親等の悪い家庭環境のせいで、俺の意思の力では、コントロールできない。他人は、社会は、俺のこの非社交性をそのまま、受け入れるべきだ」などと感じて、考えていました。
森田正馬博士の言葉として、「自覚と悟りへの道(白揚社)」中で、以下のように述べられています。

“ …森田   赤面恐怖や対人恐怖の人はなかなか多い。対人恐怖の人が訴える“人前できまりがわるい”とか、”恥ずかしい“とかいうのは、人間なら誰しももっている感情でありまして、人前で何ともない人は変質者か、精神薄弱者か、精神病者であります。恥ずかしいときは恥ずかしいままにあるのが普通の人でありまして、それを自己流の理屈で『恥ずかしがっては損だ』とか、『恥ずかしがるのは不利益だ」とかいうふうに考えるのが対人恐怖の人であります。…“
“…それと同じように、神経質の人も、懺悔をし、犠牲心を発揮することは、同時に治ることになるのであります。たとえウソでもかまわないから、ためしにやってごらんなさい。たとえば、自分が恥ずかしがりであること、気が小さいことをかくそうとするのが対人恐怖でありますから、自分の恥ずかしがりや気の小ささをみんなの前で告白すれば、もはや対人恐怖でなくなるわけであります。…”
“…神経質者の考え方、あるいはまちがった精神修養にとらわれている人は、こわいとか恥ずかしいとかいう心を否定し圧迫しようとし、一方には近づきたいという心をやたらに鞭うち、勇気をつけようとして無理な努力をし、その結果は精神の働きがかえって萎縮し、かたよったものになってしまうのであります。
 こわくないように思おうとするから、ムリに虚勢を張ってかたくなになり、しいて近づこうとするから、相手の迷惑などには少しも気がつかず、ずうずうしくなってしまうのであります。…“

今となって、自分のとった行動を見ると、森田博士が良くない例として挙げている考え方と行動にそっくりでした。自分の現状を認められず、プライドから孤高を気取った虚勢を張って、ずうずうしく、不自然な人間となってしまいました。
これらに対して、その頃の自分の立場から言い訳をすると、それだけ、内心は不安で一杯で、森田正馬の言う純な心(ホーナイで言えば、真の自己)がなく、ホーナイの言う「神経症的誇り」から、自分の現実、問題を恥として隠そうとし、社会に出て行動するため、人間性を切り捨てざるを得ないと感じていました。
また、自分は、大学等の友達などにも、ほとんど、自分の対人恐怖、社交不安障害などの問題を打ち明けたことはありませんでした。カウンセリングに通っていたことなども含めて、自分の恥辱、弱点と感じ、強いコンプレックスを持っていたので、友人などとこれらのことを話したのは、非常に限られたことでした。
ホーナイの「神経症と人間的成長」(アカデミア出版界)から、関連して思い出さされる部分を以下に引用したいと思います。

“「第5章 自己嫌悪と自己軽蔑」より  
…彼は自分でもありのままの自分を受け入れることができないのに、他人が、自分の欠点のすべてを知りながら、親切な、好意的な気持で自分を受け入れてくれることができるなどとは、どうしても信じることができないのである。…”
“「第9章 自己縮小的解決」より  

…一人ぼっちであるということは、彼にとっては人から望まれず好まれぬ証拠であり、したがって、人にも話せぬ恥なのであるから、この相手を求める欲求はなおさら強くなる。一人で映画に行き、休暇を過ごし、他の人たちがつき合いで忙しい週末に、一人ぼっちでいるのは恥辱である。これは、彼の自信が何らかの意味で人に好かれることにどんなに依存しているかを示す一例にすぎない。…”

こうして、私は、非社交的なずうずうしい、モンスター的な人間へと行動を変えていったのです。自分の内面では、“自分は孤高の道を進まざるを得ないのだ。自分は社会には媚びを売らないのだ”などのように今から考えれば自分に都合良いように、美化していました。
道で、大学の知人に会っても、対人緊張で気分が乗らないので、挨拶もしないで、そのまま通り過ぎてしまい、相手があきれて、すっかり疎遠になっていきました。
ホーナイは、以下のように神経症の症状は通常静的でなく、進行、変化していくと述べています。私の大学時代を通じての変化や、自分の母親の年月、年齢と共に変化していく状況、症状などを見ても納得させられます。

“「神経症と人間的成長」の「第14章 精神分析療法の道」より 
…神経症は急激な障害を引き起こすことも、また時にはかなり静止した状態のままのこともあるが、その本性はどちらの状態のものでもない。神経症はそれ自身の勢いで進行し、それ自身のもつ容赦ない論理によってしだいに人格の広い領域を覆っていく過程であり、また、葛藤を生み出し、その葛藤の解決を求める欲求を生み出していく過程でもある。しかも、個人が見出す解決は不自然なものでしかないので、再び葛藤が生まれ、そのためにさらにまた新しい解決――何とか円滑にやっていけるような解決――が必要になってくる。それは、人を真の自己からますます離れさせ、そうすることで彼の人間的成長を危機に陥れる過程である。
 神経症が短期間に容易に治癒できるという誤った楽観主義に陥らないようにするためには、この過程の深刻さを明らかにしておかなければならない。実は、「治癒」という言葉をつかうのは、恐怖症や不眠症のような症状の緩和を考える場合だけにふさわしく、そうした緩和なら、周知のように、様々な仕方で行なうことができる。しかし、ある人のたどってきた誤った発達を「治癒する」ことはできない。われわれには、その人が障害を徐々に克服し、建設的な方向へ進む手助けしかできないのである。…“

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